「実は、お逢いしたいひとがあるのです。お名前も御住所もわからないのですが、
たしかに仙台市か、その附近のおかたでは無かろうかと思っています。女のひとです」
太平洋戦争末期、二度にわたる空襲で家を失った太宰一家は行く場を失い、
ボロ服の乞食のような姿で、疎開のため上野経由で故郷・津軽を目指す。
その汽車の中での出来事。真夏の長旅、用意していた食べ物もいたみ、
二人の子どもたちもむずがり出す。暗澹たる気持ちになり絶望する中、
食べ物を分け与えてくれた女の人がいた。しかしお礼を言うひまもなく、
その女のひとは途中下車する。
「その女のひとに私は逢いたいのです。逢って、私は言いたいのです。
一種のにくしみを含めて言いたいのです...」
■太宰治(だざい・おさむ)
津軽の大地主の六男として生まれる。共産主義運動から脱落して遺書のつもりで書いた
第一創作集のタイトルは「晩年」(昭和11年)という。この時、太宰は27歳だった。
その後太平洋戦争に向う時期から戦争末期までの困難な間も妥協を許さない創作活動を
続けた数少ない作家の一人である。戦後「斜陽」(昭和22年)は大きな反響を呼び、
若い読者をひきつけた。